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まあ、ええわ。(砦を越える2)

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「なんであれ愛する」というのは、身近な人ほど適用するのが難しいということを言ったが、さっそくにお試し的出来事があった。(このごろ、考えていることがすぐさま現象化する感じなので、ちょっと怖いような畏敬のようなものを覚えます)

それは、夫のちょっとした発言に対して、強く憤りを感じたこと。この日、なかなかむかっ腹が治まらず、お風呂の中で、この気持ちをどないして伝えようか?と真剣に考えていた。

口で伝えると、きっと感情的になるからメールにしよう…とか、
考えを改めて欲しいのが目的なのだから、憤って怒りをぶつけないように伝えるには?など、
…でも、考えれば考えるほど、私が考えているように理解してもらうのは難しいことなんだと思えた。

先日も書いたが、「私の正当性よ、さようなら〜」と思ったことも、夫を相手にすると、なぜかどうしても腑に落ちない。

私に失礼をしたことに気づいて欲しい、詫びて欲しい──と、正当なのは自分であり、「不当な彼は変わるべき」という思いが心を占めるようになる。

こんなふうに、「なんであれ愛する」ということに関して、私は「夫だけ例外」と考えており、そこはむしろ「例外とすべき」だと、結論づけて納得していたのだった。
(それは、もちろん「愛」からですよ。たとえバトルになろうが、とことん話し合うというコミュニケーションのために夫婦という特別な関係があると考えているので)

だから、「わかってほしい」と「でも、難しい」の間で揺れ動きながら、私は「ああ、お父さん、おばあちゃん、ご先祖様。私は<かくかくしかじか>と思っていますが、もうどうしていいかわからへんので、一番ええ答えを見つけさせてください」と、湯船の中で祈るしかなかったのであった。(←愛はありますが、非常に俗っぽい祈りw)

お風呂から上がると、なぜだかこのブログを読みたくなり、先日の『砦を越える』を改めて読んでいたら、急に何かがすっと抜けた。そして「まあ、ええわ^^」と思えた。
愛さねば!と、なんとか不快を振り払って「まあ、ええわ」と結論したのではなくて、もっと軽い「まあ、ええわ」。

どうしても伝えねばならないことなら、スムーズに伝えられるタイミングがきっと出てくるだろうし、もしそんな必要がなければ、それはそれでええわ…という程度の「まあ、ええわ」。
考えてみれば、家族以外の人たちには、ふつうに適用している考え方。

私は、夫に対して、考えの転換をすることが怖かったんやな、と気づいた。他人に対する感覚と同じになるということは、パートナーとしての愛情が冷めてしまうような気がして。相手に期待していることが私にとっての一つの愛情表現だったようだ。

でも、すべてを愛するということに立脚したら、他人も、夫も、ムスメも、なんら変わらない。
夫に対する愛が変わったのではなく、むしろ、家族以外の人に対する愛の方が変わったのではないだろうか。
それによって、夫に対する愛の‘持ち方’が、家族以外の人と同じであっても、夫婦としての愛情を失うわけではないのだと理解して、夫に対するある種の執着と期待がポトッと落ちたのだ。

これぞ、「砦を越える、パート2」。(笑)

パートナーである彼に対して、変わることを望むのではなく、そのまんま「まあ、ええわ」で愛することができた歓び。この広がりのある感覚はなんとも甘美で、幸せに満たされる。彼の存在自体を愛せたこと、それは強くて軽やか。

あー、ワタクシはどこまでもいけるかもしれない^^♪…などと、銀婚式を前に、主婦としてのささやかな喜びをかみしめるのであーる。ちゃんちゃん。

(これを読んだ主婦の方が誤解をすることなきように追記。

今回、ふっと何かが抜けたことが関係して今の心境を得たわけなので、腑に落ちてないのに、何でも愛そうとして、たとえば無理やり浮気夫を許さなくっちゃ!なーんてがんばらなくていいんですよ。先ほども書いたように、「たとえバトルになろうが、とことん話し合うというコミュニケーションのために夫婦という特別な関係がある」のは、現実の世界では当然のことであり、大切なことですから)

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