言うまでもないことですが、

私は、京都タロットを、すごく楽しんで使っていて、

生活に、京都タロットを取り入れるだけで、

暮らしが、格上げされるみたいに面白くなるってことを、

どんなふうに、みなさんに伝えていけばいいのか、ずっと考えてきました。

そんななかで「自己対話」という言葉を、私は好んで使っていまして、

京都タロットで自己対話する方法…という切り口で、今まではお話ししてきました。

ただ、「自己対話」が、私たちをどこに招いているのかについては、

私は、言及してこなかったのですね。

 それは、

 やってみれば、わかる、、、

 なるようになっていく、、、

ということがわかっているからに他なりませんが、

ただ、ふりかえると、無意識にですが、

これを語ることに、ゾクッとする感じがあって(ただの怖れなんですが…)

長いこと、ためらっていたように思います。

では、先に、答えから申します。

京都タロットのいう自己対話の招く先──

それは、

生活自体、生きていること自体、

つまり、

 存在のしかた、あり方が、いわば神秘的に変わっていくこと。

あるいは、

 何も変わらなくても、

 神秘的であることに気づいてしまうこと。

わたしは、一主婦として「ふつう」の暮らしをしていますが、

おそらく、その捉え方が、あまり一般的ではありません。^^

場合によっては、非常識 などと、勘違いされてしまうこともあり、

好みの分かれるところではあります。笑

だから、生活を晒す状況になったときに、

起こり得る誤解が怖かったんだと思います。

しかし、もう、ほんとうに、時期がきたんだなぁと思います。

今後は誤解を恐れず、率直にお話しすることにしました。

なにしろ、

このあり方のほうが、瞬間瞬間が、新鮮で、楽しい。

そして、目線(目的)だけを、はっきりさせたら、

ハンドリングを、宙にゆだねてしまっているので、

ほぼストレスがありません。

ひとことで言えば、

ふつうの、ありふれた日常が、

アート   になっていくのです。

この、わたしの日常のあたりまえの捉え方を、

オープンにお話しするときがきたと、今、感じています。

なぜって、これからは、

次々と、「日常感覚」が変容してしまう人が増えるのが感じられるからです。

つまり、周囲は何も変わっていなくても、

まるで、違った星に生まれ変わったように感じる ということ。

そのとき、今までのあり方を手放して大丈夫。

手放してこそ、スムーズに変わる。

ぜんぜん、大丈夫だ  と、ホッとしてもらえるように。

わたしのあり方自体を、開いて、やっていこうと、腹を決めました。

ある意味、カミングアウトです。

今回、冥府渡りの井戸と、黄泉がえりの井戸をお参りして、

「怖れ」を手放すことができたから。

それが「イド」と「エンマ」に現れ出た、物語の成就。

(詳しいことは、改めて書きますね)