空観タブレット(探究の終わりについてのつれづれ6)

この探究つれづれシリーズでは、Pさんのことをよく書く。そりゃそうである。私の唯一無二のリアルの師となった方であるからだ。
おそらく、Pさんご自身は「師」と呼ばれることはあまり好まれないような気がするし、きっと「私は弟子の…」なんて言えば、ひっくり返って吹き出されると思う(笑)。私自身も、内面のことに対して「師」と仰ぐ人を見つけることには長い間抵抗があった。現在は、心を分かち合えるかけがえのない友人の一人ではあるが、この瞬間だけ、改めて「師」と呼ばせていただきたい。

私にとって、「師」は「訪れた」ものであった。
あんまり苦悩しているのを気の毒に思ったご先祖さん(他界した祖母や父など)が、わざわざ探してくれた人のように(半ば本気で)思っている。

そんなPさんの話されている内容の骨幹をなしていて、顕著でわかりやすい特徴が「空観」と「愛と慈悲」にカテゴライズされた二つの気づき(悟り)の話。空観と愛と慈悲については、Pさんブログを拝読すれば、もうじんじん、びんびんと響いてくるので、ここで詳しくお話することは何もないのだが、Pさんのおっしゃる空観と、愛と慈悲の、2種の気づきについて、私なりに感ずることを書きたい。それが今回の、そして探究つれづれ最後のテーマ。
苦悩の旅を終着へと導いてくれた「師」へ、敬愛を込めて。

今までに何度か書いたが、(超簡略化すると、)
私は、少女時代に突然に訪れた「愛と慈悲」の気づきによって(厳密に言えば、その気づきが消えていったことによって)探究人生がはじまり、20余年後「空観」の気づきによって終了した。
(前回は、衝撃的な気づきとシンプルな気づきについて書いたが、これもそれぞれに体験したことであったので、それを元にお話した)

禅の『色即是空、空即是色』といわれるごとくに、空観と愛と慈悲のそれぞれの気づきは、合わせて1セット。切り離せない。

こんなふうに書くと、2種類の悟りがあって、それぞれに経験しないといけないのだ…というファンタジーを生みそうな危惧があるが、そうではないのでご安心を。(笑)
私が思うに、空観について気づいた人は、その淡々とした気づきを日常に活かしていくことで、愛と慈悲の方も自然に感得できるし、その逆の場合も、ジタバタしなくても(私はジタバタしたが(^^;))、その時気づいた愛を体現するべく日々を過ごしているだけで問題ない。いつか空観にも自然に気づけるかもしれない。まあ、気づけないかもしれないが(笑)、空観については知らなくてもいいことだから、どっちでもいい。

悟りとか、認識のシフトとか、光明を得るだとか…脳内で模索したところで、どないもこないもやりようがない話ではなく、だれもがどこかで大なり小なり経験する人生の「辛い出来事」に対して、この二種の「気づき」には、具体的な処方箋としての効果がある。
ただ、それぞれに用途と効き方に違いがあって、それを覚えると、具体的な苦悩へのアプローチにバリエーションが広がるのでオススメしたい。

先日気づいたのだが、空観と愛と慈悲の気づきは、対処療法として強力な「西洋医学」と、時間はかかるが体質改善に向かう「東洋医学」という二つの医療の在り方との違いと、実は驚くくらい似ているのだ。

以前、ストーカーモドキのジジイ氏について書いたように、ジジイ氏を見かけた時は、条件反射で血圧が上がるというか、どうしても嫌悪感と恐怖で心が一杯になってしまうということが起こる。
あとから冷静になれば、取って喰われるわけではなく、相手は好奇心が昂じてやってくるだけなので、必要以上に怖がる必要は何もないのは頭ではわかっているのだが、その一瞬は、我を忘れて怖れを強烈に感じてしまう。

この時に、本質的解決を望むのであるのなら、本当は「愛と慈悲」で挑むべきである。怖がっている自分を認め、その自分をまずは許し、愛することで、おそらく連動して相手への慈悲心というものも芽生えるのであろう。そうなれば、もはや、自分をじっと見ている眼差しに気がついても「気味が悪い」という反応ではなくなるはずで、愛でもって自分の苦痛と共に、相手への恐怖も溶解してしまうことだろう。

しかし、どうしても「恐れ」の方が勝ってしまう場合もある。愛で対処したくても、気持ち悪さが先に立ち、恐怖をまともに味わうことがとてもできない時もある。
そういう時こそ、「空観」で物事を「中立」に見る という空観のものの見方が役に立つ。「恐れ、恐怖」と思っている感情を、出来事から切り離して、ただただ味わってみる。そして、その感情から「恐れ」という名前を捨てる。その「体感覚」のみを感じてみる。身体を、「その」エネルギーが通るのに任せる。
さらに、自ら聞いてみる。「この体感覚自体に『怖い』と書かれているの?」と。
じっとじっと見てみると、やがて「なにも起こっていない」ということが体感されてくる。すべては自分の作り上げた物語の世界で、ただ、起こることが起こっているだけということが、シンプルに見えてくる。

上記の一連の流れは、最初はある程度はトレーニングを要するが、何度もやっていると、ものの数分で、「世界には何も起こっていない」ことに気づかされる。そして、恐怖がいったん消滅する。
(ほんまに訓練次第ですよ。何べんも繰り返せば、だれにでも習得できます)

ただ、これは単に対処療法の頓服薬みたいなもので、その時は忘れても、またジジイ氏をどこかで見かければ、改めて恐怖心が湧いてくる。何も起こっていないことがわかっていても、恐怖心の消滅は永くは続かない。
その点、「愛と慈悲」で気づくことができれば、それは物語の在り方の全貌を変え、恐怖心を克己してしまう。

かつては、物語自体が消滅する、空観の気づきが最強だと信じていた。何せ全て「消滅」するんだから。しかし、この消滅は、ベタベタでコテコテの人間生活(笑)とは別次元で感知する消滅なので、空観≒「私はいない」≒「私は人間でもなにものでもない」で、いったん消えても、地上での「人間のリアルな暮らし」に戻れば、「人間」である事に戻るので、その中にあった「恐怖心」は蘇る。

「人間である」状態のまま体験する「愛と慈悲」の気づきは、人間であることの苦悩に(痛いけど)直接に効く。だから、本来的には、愛と慈悲の気づきでもって直に対応するのが、一番強い。
ただ、やっぱり、まともに味わうには痛過ぎる、とにかく傷み止めくれ〜!という切羽詰まった場合も、人生にはしばしば起こる。そういう時は、上記のように、空観の気づきがとりあえずは効く。私が何べんも試して、その都度効果を実感している方法なので、オススメしている次第。

この気づきの方法は、Pさんのブログにくわしーく掲載されているので、ぜひマスターされてください。航海中の船酔いに効きます。(笑)
人生の船出に空観タブレットを一箱、ぜひお供に。心のお守りにもなりますし、お金もかからないし。(←これ、オバさん的にはけっこう重要!笑)