部屋の書類整頓は、ほぼ終わった。
とてもやりやすくなったはず……だが、その途中で、古い書類のほこりを吸って、咳が止まらなくなった。
でも、この咳は単なる「咳」ではない。
古い秩序を脱却するにあたっての作用。
えらい前向きな言い方をしたけれど、ほんとうは、めっちゃキツい。
怒り狂って、さらに哀しんでいる「女」が、取り憑いているのが、自分でもわかる。
夫の顔色をうかがっている自分に気がつく、そして腹を立てている。
それは、過去生の私でもあり、同じような理不尽を味わっている女たちの気持ちと共振している。
私は、かつての、古い時代の、巫女であったことに気づき、
おそらくは、その女性優位時代に、なにかしらの理不尽を、男性に強いたことがあるような気がする。
そして、現在、本来ならスムーズであるはずの巫女のあり方に、私は歯止めをかけるように自ら仕組んでいるのだとわかる。キツイが、俯瞰で見れば、地上ゲームといえるのだろう。
よくよく冷静に考えると、「この程度の」価値観の違いなど、気にしない人なら気にしないだろうし、気にする必要はない。
私は、心の奥で、本当のところ、何を望んでいるのか、ここで洗い出してみたい。
私は、彼(パートナー)に、新しい(実際は復古)男女の在り方の価値を理解して欲しいと思っている。
そして、私の巫女としての本当の価値を認めて欲しいと思っている。
…と、書きながら、少しまとまってきた。気がついてきた。
私の深奥では、別の筋書きを用意しているようだ。
表層意識では、理解できない男性と、本質は巫女であるところの女という、ありふれた夫婦が、変容していくというシナリオ。
あたりまえだが、最初から理解を求めるのではなく、自分が、自ら、その生き方、在り方をこの人生で実践して見せて、やっと男は、本質的な性差とその活かし方に気がつくのだと思う。
だから、私は、もう甘ったれてはいられない。
この甘えの体質こそ、旧態の女像であって、そうしなければ愛されないと教育されてきた(してきた)古めかしい女の姿を表しているのだと思える。
貴郎(あなた)よ、そうしなければ愛せないのなら、わたしを愛さなくてもいい。
それでいい。
それでいいのではないか。
私よ、それくらいの強さを、毅然として持て。
愛さなくてもいい。愛されなくてもいい。
恐ろしい言葉だ。笑
でも、今の、この脱却期にある私には、ひたすらに、必要な言葉なのではないだろうか。
愛されなくてはいけないということこそ、呪いではないだろうか?
そうしなければ生きてはいられないと、連綿と語り継がれてしまった呪文なのではないだろうか。
じゃあ、私は、彼を愛していることは?
愛してしまった…それでいいではないか。ちがうかな。笑
私は、彼を、愛してしまった。この人生で、彼に、心を奪われてしまった、それでいいではないか。
私は、彼を、愛してしまった。以上、マル。