うちの町内のお寺さんで夜間特別拝観があった。ときどき特別公開があるが、夜の拝観は初めての試みとのこと。

竹製の灯籠が導く本堂へ歩く。まずご本尊の釈迦如来を拝む。
係の人の話によると、平安末期から鎌倉期に創建。しかし。応仁の乱や天明の大火等で焼失しては、場所を変えつつ復興を繰り返す。もともとは、御所西の現在のとらやさんがあるところに建立されたお寺らしい。
近代になっても、病院の建築費の寄付をするために、本堂や書院を売却するなど、幾度となく浮沈があったそうだ。(京都のお寺は、歴史的に激しい盛衰があたりまえっちゅうか平均的だと思う)
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さてさて🍀、五葉の松が照らし出された書院へいくと、お隣のNさんとバッタリ遭遇。
「この奥が、Iさんところやろか?」「ええ借景やねぇ」などと、ならではの会話になる。笑
御朱印を記帳される時だけ、部屋の電気が一瞬灯され、それ以外は消してくださるので、書院は真っ暗。
暗闇のなかで、ぼんやりと枯山水の庭が浮かび上がる。これがめっちゃ良かった。
石灯籠や五葉の松がほんのりと浮いているような、この仄明るさがなんともいえない。
電気が消されると、だれも、何も話さない。話す気になれないのだ。

参拝者のほとんどの人は、書院の縁側廊下に腰を下ろして、黙って庭を眺めている。
何せ暗いので、お庭の植栽もはっきり見えるわけではない。
当たり前だけど、景勝を観る目的なら昼間の方がいい。暗いから、何が何やらわからない。笑
しかし、私は、今回、すごくすごく感動したのだ。涙が出そうなくらい。
お庭の静寂を、こんなに全身で受け止めた経験は一度もしたことがなかった。
(ライター時代、日本庭園はよく取材させてもらったが、当然、昼であった。そして、やっぱり参拝者としてではなく仕事で入っていたからだろう。当時は、心から味わえていなかったように思う)
感動でじんわりしていると、夫が肩を叩き「先に帰るわ。ごゆっくり」と言って、ボンを連れて帰っていった。(ちなみに家までは、門を出て10秒くらいなので、なんの問題もない)
おかげで、30分くらい、ひとり飽かず眺めていられた。庭の静けさが、じんじんと染み入るような、体と呼応するような心地よさ。
とちゅう、凪の時間がやってきて風が止まり、木々の揺らぎの一切が止まった。なんだか、巨大な一枚の絵をみているような錯覚に陥った。
平安時代なら、もっと星々が見えていたんやろなあ とか考えていると、
その頃、庭を眺めていた都人と、自分とが、何も違わない……というか、時間がなくなったような、そもそも時間自体が錯覚ではないかと、妙な感覚がやってきた。
なにもかもが消えたような感覚。美とは静けさのことなのか…などと思った。
昔の作庭家が表したかった何かを感じたような気がしてくる。そして、庭の静けさの中で、お茶を立てたいと思ったいにしえ人の気持ちも、なんとなく理解できるような気にもなってくる……柄杓が茶釜のへりにコツンと当たる音、お湯が茶碗に落ちる時のコポコポ音……そんなものを聞いて、身体で捉えたくなる。妙な欲求やな。
なんだか、先に席を立って帰ってくれた夫にありがとうと思った。この豊かな時間は、だれかと一緒にいることを意識していては、味わえなかったような気がしたからだ。(夫とボンは、単に、退屈になっただけなんだけど。笑)
あ、そうそう。先日、お茶を味わって瞑想するというコンセプトのホテルに行ったのだが、そこで味わったものに近いと思う。暗さも、ちょうど。こちら↓。

暗いということも、案外、いいものかもしれないとちょっと思えた。(幼い頃から暗いところが苦手だった。怖かった)
実は、こちらは尼門跡さん。毎夏、地蔵盆の日は、町内の人のために、入り口あたりの一般には入れないお地蔵さんや小さなお社(神社)が祀られている境内が開かれる。その日だけ、尼さんのご尊顔を拝せて、お地蔵さんに読経される。ちなみに尼さんの読経ってあまり馴染みがないものだったけど、ソプラノっぽくて美しい響き。
いくら隣人でも、そうそうお会いさせていただけないので、殿上人のようなイメージを勝手に持っていましたよ🤣



こんな感じ↑。西陣織の掛け物がゴージャス✨✨
ここ数年で、一番好みの設定✨気に入った寺院だったかも😊。なんといっても暗いのが、良かった。作為的すぎないライトアップが、私にはちょうどよかった。ほんとうに素晴らしいひとときだと感じた。
朝日新聞デジタル(上部にリンク)で、ご住職が応えているように「一般の寺院とは違う、閉ざされた世界だからこそ伝わった文化や空気を感じてもらえたら」とは、まさに的を射ていると感じる。
そんなわけで、お寺ナイターも趣味になるかも?!