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それはユートピアか?ディストピアか?

ご存知の方は多いと思うけど、成田悠輔さんというイエール大学助教授で、めちゃめちゃ賢い経済学者で起業家のお兄さんがいて、彼がYouTubeに出ていると、なんだか面白くて見入ってしまう今日この頃。

ちょっと冷笑的な雰囲気もあって、辛辣な社会批評をされることも多いインテリ氏なのだが、容赦のない辛口コメントされていても、なぜか嫌味に感じない不思議な魅力のある人である😊

この動画↓は、私の好きなテーマでなかなか興味深かった。

郷堀ヨゼフさんというチェコ出身のお医者さん?の話によると、チェコの人の多くは、身内が危篤だと病院から連絡が入っても、家族は見送りに行かないらしい。もう死の領域に入ったとし、生きている方は切り離して考えると。

動画内でヨゼフさんは、このことを良い意味でおっしゃっているのではなくて、まるでハクスリーの『すばらしい新世界』のようなディストピアだと。(『すばらしい新世界』というタイトルは、真逆の暗喩)

ネガティブを排除し尽くした世界。ユートピアを追いすぎることで、むしろディストピアとなる──死を無くしたことで、我々は人間でなくなると。(死を排除することで)生きる意義も、その瞬間、消えてしまっているともおっしゃっていた。

死を無くすというのは、死を「忌避する」という意味でヨゼフ氏は使われていた。そして、母国(をはじめ西洋の死生観)の在り方に警鐘を鳴らしておられた。

確かに、死を怖れて排除するのはディストピアだと思う。昨日、投稿したように、映画『すずめの戸締り』でいうなら、忌むべきものとしてミミズを封じ込める世界だとも思った。

ただ、今の時代は、ヨゼフさんが危惧されるような感じにはならないんじゃないかと勝手ながら思える。チェコ人じゃないので、お国柄とか、国民性の真実はわからないのだけど。

死を怖れて、身内の死に立ち合わないというのは、確かに、それはおかしなことだ。いずれだれもが通る道なので、避けようがないのだから。

でも、いずれだれもが通過するのだから「死を大げさにしない」というニュアンスであれば、意味合いは180度変わる

どのみち、人は、たったひとりで、次元を移行する。そこに家族がいても、いなくても。

死を排除するために立ち合わないのはディストピアだが、静かに生を見送るために立ち会わない世界はユートピアになりうる。(立ち会うことでスムーズに移行しにくいことは、多々あるように思える。大事な人が死ぬ時は「いかないでー」ってじゃましそうやもん😅

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自分の死を察知すると、ネコ科の動物の多くは、独りになりたがると聞く。誰にも見送られず「あちらに」行こうと飼い主から離れるらしい。ただ人間(飼い主)の方がそれを嫌がって、自分の傍で逝かせたがるけど、本当は素知らぬ顔で見守ってあげるのが、ほんまの優しさだと猫好きの友人が言っていた。(ちなみにイヌ科はまた違うらしい)

私は、ネコのこの潔さがほんまに美しいと思う。いや、ネコ自身には、潔いも、美しいも、ないだろうけど。

ただ、そっちの方が自然だから、そうするだけ。自然が呼ぶから、そうするだけだ。

内なる声に、ほんとうに、純粋に、純真に、したがっていれば、潔いのが当たり前なのかもしれない。

東洋的(日本的)な死生観を持ちながら、西洋的なドライな?去り方が融合されれば、死は、生の一部として、もっと深い体験として受け入れることができるだろうか?

そうなると「生」はもっと鮮やかにイキイキと蘇るんじゃないだろうか。そうなったとき、人は初めて、死を怖れなくなるのかもしれない。死を怖れなくなった時、死者と語り、生へと循環する秘密が明かされる可能性が開かれる。……のかもしれない。知らんけど。

それはさておき、動画内で紹介されていた新門辰五郎さんの辞世の句は、ちょっとエロくて粋どすなぁ。この方、有名な江戸の町火消しでもあったそうですよ。町火消しといえば、京都タロットの『稲穂の彦』です。(@西洋タロットではPrince of Wands)

作画)江田朋百香

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