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戦争というメソッド

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人は無条件の愛をマスターするまで、学び続けているという。
そのために幾世にもわたり、輪廻を繰り返しているらしい。
私は特に何かの宗教や信仰を持っているわけではないが、この在り方を支持している。
生命形成と進化について、とらわれなく考えるとき、この在り方はとても自然に感じるからだ。
人間には、思考能力が与えられているがゆえに、どんな出来事からも、そこから学びと教訓を受け取る知恵に変換できる。
どんな出来事…戦争からも…だろうか?
私達の中には、こだわりを捨て、本来の在り方に近づくために、逆に、ある特定のこだわりを徹底的にやってみる…という手段をとる場合が往々にしてあるような気がする。
アルコール中毒者がそれを止める決意するのは、「死ぬほど」呑んで、「死ぬかもしれない」宣告を受けた後だったりする。
また浮気の虫が治まらない亭主の遊びが止まるのは、時として『危険な情事』さながらの愛憎劇に心底尽き果てた後であろう。
お布施をして改心した…なんて人は見たことがないが(そういう振りをしている人はいるにしても)、上記のような例は本当に頻繁に見聞きする。
私達は、過去の過ちをそれと知りつつ、かくも繰り返してしまうのは、人間は、地球という現実に肉を持って生きているために、自分の身に通さなければ血肉になっていかないのだ。
つまり、本当に痛い目に遭わなければ、わからないってことだろう。
嫌だと言いながらも繰り返しているうちは、まだまだなんだろうな。
何にせよ、とことん、やってみることだろう。
「そんなことしたら、死んでまうやん?」と思うかもしれない。
そうなのだ。「死ぬかもしれない」ほどやってみて始めて、「死ぬよりはいい」という“健康的”な判断がやっとできるお馬鹿な私達地球人。
先にできてりゃ、生まれてこないさー。
…などと、呑気にうそぶいていられないこの戦争だけれども、戦争こそ、その最たるものだろう。
何があろうと(それがたとえ正当な理由であったとしても)、「殺るのも殺られるのも、もう嫌だ!」と全身全霊で思えたとき、私達は、はじめて今まで味わったことのない本当の平和へと顔を向けて行くことができる(のだと思う)。
それ以前の平和など、いつ戦いに転じるかわからない、もろいものだ。
成長進化を志向する魂にとって、戦争すらメソッドとして、存在しうる。
ただ、最も痛みが強くて負担の大きい、最高リスクのメソッドであるのは言う間でもないけれど。
精神にとっての戦争とは、まさにそれを「捨てる」ために、宗教的に答えるなら「喜捨する」ために行う最大のものであると言えるだろう。
個人的には戦争など体験せず、一生、平和ボケしていたいのだが、この情勢を見渡すかぎり、なかなかそうは米問屋が(わかります?)下ろしてくれないかもしれない。
今のうちに、もっとささやかなこだわりからポイポイと「喜捨」してしまいたいもんだ。

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